本庶先生、ノーベル賞おめでとうございます!
いやー、めでたい。
月並みだけど、やはり日本人として誇らしく思える瞬間。
ということで、本庶先生のノーベル賞受賞を期しての投稿(笑)
『日本企業は「見る目」がない――。2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞する京都大学の本庶佑特別教授はこう不満を口にした。日本の大学などの研究論文がどこでビジネスの種である特許に結びついているかを調べると、米国の比率が4割を超す。研究開発力(総合2面きょうのことば)の低下が指摘されるなか、イノベーションにつながる国内の芽をどう見いだすのか、企業の「目利き力」が問われる。』
本庶先生は、日本の研究者は質の高い(将来大きな事業になる可能性も含めて)研究をしているのに、日本の(製薬)企業は日本の研究者に投資をせずに海外へ投資している。見る目が無い、と憤っておられる。
また、皮肉にも日本の研究成果を最も事業に生かしているのは米企業で、特に顕著なのが本庶先生の専門分野の基礎生命科学の分野。記事によれば、06~13年に最も多く日本の論文を引用したの米国の比率は46.8%、対するに日本は16.6%とのこと。
このような状況は基礎生命科学の分野以外でも同様に起こっているのだろう。そして、製薬企業だけの問題ではなく、他業種も、もっと言えば、国レベルでも同じ。
国全体の課題だ。
では、日本の国、そして企業は本当に基礎研究や技術に対する目利きが利かないのだろうか?あるいは先見性が無いのだろうか?
個人の目利き力もあろうが、それ以上に
組織の意思決定プロセス
に問題があるように思える。
例えば企業の場合。基礎研究に対する投資案件が稟議などで審議されるとしよう。民主主義的な合議制によればよるほど仮に先見性があったとしても
見送られる可能性が高い。
というのも、通常の意思決定プロセスにおいては、投資によるメリット(効果)がいつ、どの程度(金額的なインパクトや実現可能性)当社に期待できるのか、を示す資料や説明が必ず必要になる。
しかし、残念ながらというか当然ながら、新規性の高い案件であればあるほど、過去、現在をベースにした情報では説明は難しい。逆に言うと、だからこそ新規性が高い、画期的な発明に繋がる可能性があるわけだ。
よっしゃ、俺が責任とってやる、というオーナー企業以外、無理だろうな・・・
将来のことは誰も分からない。だからこそ将来の事象は全て可能性は0ではない。
組織の意思決定において将来の可能性をどの程度認めるか、ということだが、多くの日本の組織(企業)は相当高い成功確率を前提にしているのではないか。
つまり、日本企業の意思決定は
成功を前提とした意思決定プロセス
であるように思う。
今年のコーポレートガバナンス・コードの改正もそうだが、コーポレートガバナンスの強化の風潮の元ではそういった傾向がより一層強まる。
例えば、社外取締役の存在。社外取締役はその会社の事業に精通しているわけではない。むしろ組織の論理に待ったをかけ、客観的な立場、一般的な常識の観点から取締役会に意見を述べたり意思決定に参画することを期待されている。
事業に精通した人間であっても研究や技術の将来を見通すことは難しいだろう。将来確実に成果に結実する説明など期待できるわけもない。
いわんや社外取締役をや、だ。
となると、新規性の高い案件ほど社外取締役の合意は得られにくくなることは想像するに難くない。
リスク(この場合は投資の成果の可能性)を適正に評価してと言う考え方もあるが、一定の前提を置いた評価なるになるので、実際、成功するのか、しないのかという疑問に対して直接的な解を得られるわけではない。
個人的には、一定の研究開発などの新規性の高い、近い将来の事業に結びつく可能性が高くない案件への投資は事業戦略との整合性や方向性といった面の評価に留め具体的な成果は問わない。その代わりに、投資金額を枠管理をすべきと思う。
要するに、一定の範囲内で
失敗を前提とした意思決定プロセス
を導入するという考え方だ。
湯水のようにR&D投資しても会社の財務基盤が立ち行かなくなるが、かといって案件ごとに一律に成功を前提とした意思決定プロセスに乗っけると目先の(場合によっては小さい)成果ばかりを追いかけることになりかねない。
例えば、投資案件を
時間軸:短期、中期、長期
難易度:易、中、難
のようなマトリックスによる区分ごとに意思決定のプロセスを変えてはどうかと思う。
最近では、ノーベル賞の受賞の度に受賞者が喜びと同時に将来の基礎研究への不安、そして重要性を説き支援を呼びかける姿が恒例になっている。
やはり、いつまでも日本が世界から賞賛されそして役に立つ姿を見ていたいものだしね。